永○寺での法話1
2003年4月6日しばらく待つと、法話をしてくださる和尚さんが、新到さんに案内されて入室してきた。若く見えるが40代前半といった感じの、柔和でおっとりした雰囲気の和尚である。深緑色の衣が上品でとても良く似合っている。
お話を聞く前に合掌して御拝をする。お寺でいつも指導されているから、正しい角度・姿勢でできているはず。
師は、まず「どちらからいらっしゃったのですか?」「永○寺に初めていらっしゃった方は?」と数人に問いかけてアイスブレ−キングをする。
そのあと、「唯識」をテーマとして話を始める。
まず、人の認識とはいかに「我」を中心としたものであるか、をやさしく解説する。おりしも、弟子が持ってきたお茶の茶托の色を「何色ですか?」と問い、「朱色」と声が上がると「では、あなたのバッグの色は?」と正面の人に問う。「これも赤です。」。次に私に視線を移し「では、あなたの口紅の色は?」と問われ「赤?」と答える。
「そうです、これらの色はみな一般に‘赤’といわれる色ですが、ではこの茶托と、バッグと、口紅の色は全く同じ色でしょうか?」「また、‘赤’といわれたときに私たちが思い浮かべる色は、全くおなじでしょうか?違いますね。みな、それぞれの赤を思い浮かべます。‘本当の赤’というものは存在しないのです」お茶の入っていた茶碗を手に取り「これは何ですか?茶碗ですね?では、これにもし剣山が入っていて花が活けてあったらどうでしょう?これは花器ということになりますね。では、この茶碗が欠けていたら?これはゴミとなるでしょう。そうです、このように絶対的な‘茶碗’というものは存在しないのです。これにお茶を注いで、誰かが飲んだとき、初めてこれは茶碗になるのです。このように、私たちは常に自分の物差しで物事を見ています。自分の都合で物事を認識しているのです。」
私が、首から携帯電話を下げているのを見てニッコリ。「あなたが携帯電話を下げているので(たとえに)使いますが、たとえば永平寺のお坊さんを見て“ああ、携帯電話が無くて不便だろうな”と思ったとします。それは、そのひとの尺度でものごとを計るからそう思うのであって、私たちは永平寺で暮らしている以上は急いで外部に連絡するようなことは無いし、外と連絡を取る必要も無いので、不便でも何でもないわけですよ。」
ですから、仏教ではこの「我」を少なくしましょうといっています。あるがままの物事を受け入れ、自分の都合で物事を見ない事が大事だと説いています。般若心経の中に‘無・眼耳鼻舌身・意’とありますね。この自分の五感で感じることを「無」にすることによって、心の平安が訪れるわけです。
道元禅師のお話を少ししましょうか。曹洞宗の開祖はご存知の通り道元禅師ですが、この方はもともとは公家の御生まれです。御生まれになったのはお父様は久我通親という御公家さんでお母様は藤原基房の娘、こちらも貴族ですがこの方ははじめ木曽義仲に嫁ぎましたが、あまり良くない人で(笑)都では受け入れられませんでしたので、30代になってから久我通親に再度嫁ぎます。今では30代で結婚されるのは珍しくないですけれども、当時としては大変遅い結婚でした。もっとも、通親のほうも大変なお歳だったようですので、道元禅師は大変遅い子供だったといえます。道元が3歳のときにお父様が、8歳でお母様が亡くなって、道元禅師は幼いながらに世の無常という物を感じられたんでしょうね。13歳の春に、比叡山に出家されます。
当時は比叡山が仏教の大学のようになっていまして、仏教を学ぶ中心のようなところでした。そこで道元は栄西・臨済宗の開祖ですが、この方に教えを請いたいと思います。しかしかなわずに、その弟子の明全という人とともに24歳のとき宗(今の中国)へわたります。今は飛行機で1時間くらいで行けますけれど、当時は中国へ行こうと思ったら、それは大変なことだったと思います。いまも別の意味で大変ですけどね、肺炎とかね(笑)。
ま、そんなわけで大変な思いをして、中国へ行きますが、当時も入国審査のようなものがあって、すぐにはお寺に入れないんです。どういう身分で、どんな目的でやってきたのか明らかにならないと、入国させてもらえないんです。それでしばらく船で過ごすことになりました。
当時、道元は「どうして悟りを得るのに、修行が必要なのか」非常に疑問に思っていたようです。「人間みんなに仏性(仏様の赤ちゃんと思ってください)があるのならば、なぜ修行をしないと悟れないのか?」どうしても知りたいと思って、大変な熱意を持って宗に渡ったのです。
お話を聞く前に合掌して御拝をする。お寺でいつも指導されているから、正しい角度・姿勢でできているはず。
師は、まず「どちらからいらっしゃったのですか?」「永○寺に初めていらっしゃった方は?」と数人に問いかけてアイスブレ−キングをする。
そのあと、「唯識」をテーマとして話を始める。
まず、人の認識とはいかに「我」を中心としたものであるか、をやさしく解説する。おりしも、弟子が持ってきたお茶の茶托の色を「何色ですか?」と問い、「朱色」と声が上がると「では、あなたのバッグの色は?」と正面の人に問う。「これも赤です。」。次に私に視線を移し「では、あなたの口紅の色は?」と問われ「赤?」と答える。
「そうです、これらの色はみな一般に‘赤’といわれる色ですが、ではこの茶托と、バッグと、口紅の色は全く同じ色でしょうか?」「また、‘赤’といわれたときに私たちが思い浮かべる色は、全くおなじでしょうか?違いますね。みな、それぞれの赤を思い浮かべます。‘本当の赤’というものは存在しないのです」お茶の入っていた茶碗を手に取り「これは何ですか?茶碗ですね?では、これにもし剣山が入っていて花が活けてあったらどうでしょう?これは花器ということになりますね。では、この茶碗が欠けていたら?これはゴミとなるでしょう。そうです、このように絶対的な‘茶碗’というものは存在しないのです。これにお茶を注いで、誰かが飲んだとき、初めてこれは茶碗になるのです。このように、私たちは常に自分の物差しで物事を見ています。自分の都合で物事を認識しているのです。」
私が、首から携帯電話を下げているのを見てニッコリ。「あなたが携帯電話を下げているので(たとえに)使いますが、たとえば永平寺のお坊さんを見て“ああ、携帯電話が無くて不便だろうな”と思ったとします。それは、そのひとの尺度でものごとを計るからそう思うのであって、私たちは永平寺で暮らしている以上は急いで外部に連絡するようなことは無いし、外と連絡を取る必要も無いので、不便でも何でもないわけですよ。」
ですから、仏教ではこの「我」を少なくしましょうといっています。あるがままの物事を受け入れ、自分の都合で物事を見ない事が大事だと説いています。般若心経の中に‘無・眼耳鼻舌身・意’とありますね。この自分の五感で感じることを「無」にすることによって、心の平安が訪れるわけです。
道元禅師のお話を少ししましょうか。曹洞宗の開祖はご存知の通り道元禅師ですが、この方はもともとは公家の御生まれです。御生まれになったのはお父様は久我通親という御公家さんでお母様は藤原基房の娘、こちらも貴族ですがこの方ははじめ木曽義仲に嫁ぎましたが、あまり良くない人で(笑)都では受け入れられませんでしたので、30代になってから久我通親に再度嫁ぎます。今では30代で結婚されるのは珍しくないですけれども、当時としては大変遅い結婚でした。もっとも、通親のほうも大変なお歳だったようですので、道元禅師は大変遅い子供だったといえます。道元が3歳のときにお父様が、8歳でお母様が亡くなって、道元禅師は幼いながらに世の無常という物を感じられたんでしょうね。13歳の春に、比叡山に出家されます。
当時は比叡山が仏教の大学のようになっていまして、仏教を学ぶ中心のようなところでした。そこで道元は栄西・臨済宗の開祖ですが、この方に教えを請いたいと思います。しかしかなわずに、その弟子の明全という人とともに24歳のとき宗(今の中国)へわたります。今は飛行機で1時間くらいで行けますけれど、当時は中国へ行こうと思ったら、それは大変なことだったと思います。いまも別の意味で大変ですけどね、肺炎とかね(笑)。
ま、そんなわけで大変な思いをして、中国へ行きますが、当時も入国審査のようなものがあって、すぐにはお寺に入れないんです。どういう身分で、どんな目的でやってきたのか明らかにならないと、入国させてもらえないんです。それでしばらく船で過ごすことになりました。
当時、道元は「どうして悟りを得るのに、修行が必要なのか」非常に疑問に思っていたようです。「人間みんなに仏性(仏様の赤ちゃんと思ってください)があるのならば、なぜ修行をしないと悟れないのか?」どうしても知りたいと思って、大変な熱意を持って宗に渡ったのです。
コメント